1967年解体まで、千代田区内幸町に存在した帝国ホテルライト館、明治村に中央玄関のみ移築され様式保存されました その歴史を振り返ります…

今から120年前の明治37年…ニューヨーク五番街の美術商で働いていた店舗で、林愛作氏(後の帝国ホテル支配人)とフランク・ロイド・ライト氏の偶然の出会いがありました…二人は親しくなっていきます。ライトは浮世絵を通じて日本文化をを愛し、浮世絵を収集していたのでした…これが全ての始まりとなります…

林愛作さんが日本に帰国した際、渋沢栄一さんから帝国ホテル支配人になってほしいという打診があり固辞、その直後今度は大倉喜八郎さんからも強くお願いされ、次期帝国ホテル本館の建設を任せて貰う事を条件に、引き受ける事となりました。すでに林さんの頭にはフランク・ロイド・ライトさんに設計を任せたいという気持ちが働いていたのかもしれません…

帝国ホテルの支配人となり、二代目ホテル建設の準備をしていた頃、帝大の建築学生が見学に訪れ、その中に遠藤新さんがいました。西洋建築の模倣に飽き足らず、ホテルの卒業設計のために訪れたのでした。ライトのフアンでもあったようですが、大学では仲間から孤立した状態…

これがきっかけで、卒業後しばらくして、林さんの紹介でライトの弟子となり、ライト館の設計監理にのめり込んで行きます…この3人が核となり、工事は進んで行きました…後にライトさんは新さんの事を、My sonと呼び信頼を深めて行きます…

工事進行に連れて、たび重なるやり直し工事を命じるライトさんと石工さんの対立は厳しくなり、工事は遅れ工事費は当所予算の6倍超え…運悪く初代本館が火災で焼失…林愛作さんは責任をとらされ、他の役員とともに解雇…更にライトさんも解雇となり、遠藤新さんに全てを託し、帰国の途ヘ…皮肉な事にその頃には、ライトさんは石工さんからも信頼されるようになっていました…

新さんが孤立奮闘し、後の帝国ホテル社長、犬丸徹三支配人とともに、工事完成へと導きました…竣工日当日の関東大震災に耐えた事で、アメリカや日本でのライトさんの名声は大いに高まる事となりました

時は過ぎ1967年11月、ホテルオークラの設計監理も終わった後、谷口吉郎さんに1本の電話☎が土川さんから入りました…「大変だぁ~!」二人は金沢で高校の同級生…明治村はこの二人が中心となり創設されました。

当時土川元夫さんは名鉄社長、谷口さんは明治村初代館長…「帝国ホテルライト館が明治村に来ることになったぞ!」寝耳に水の大事件の始まりでした…ここから谷口館長の苦悩が始まります…

1967年11月、ライト館解体は12月から始まる事になっていた矢先、渡米した際、時の首相・佐藤総理が明治村へのライト館移築を記者団の前で公言してしまいました…

アメリカ人建築家、ライトが設計した帝国ホテルはアメリカ人の誇りでもありました。時の総理としてそう答えざるを得ない外交上の背景もあり…良くも悪しくも、これがきっかけで、明治村移築への困難なプロジェクトが動き始めました…

1968年に移築工事開始…谷口さんがお亡くなりになったのは1979年…ライト館中央玄関の内装工事が終わり開館したのが1985年なので18年の歳月が過ぎました…移設に伴う国の補助は当初予定の10分の1、主に予算の問題で明治村の負担となり、時間がかかった模様です

谷口さんが発想したとされる様式保存…構造体は新たに構築し、使える内装材は再利用、使えないものは再現した部材で作られています…

101年前、関東大震災と同日、千代田区内幸町にオープンした帝国ホテルライト館…様式保存に向けて努力された方々に感謝です…

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